明智光秀ってどんな人?性格や経歴エピソードとは
明智光秀と聞くと、「織田信長に謀反を起こして裏切った人」や「真面目な性格が信長と合わなかった」とイメージを持つ人も多いと思います。
近年、明智光秀に関する研究がすすみ、今まで知られていなかったことが明らかになってきました。
今回、この記事では
- 大河ドラマ「麒麟がくる」で明智光秀に興味を持った人
- そもそも、明智光秀ってどんな人なの?
- 明智光秀の性格って謎だわ
と思っている人向けに書いています。
明智光秀の主な経歴
明智光秀が本能寺の変以外に残した主な功績としては
- 足利幕府との外交担当
- 金ヶ崎の戦いで殿を務める
- 比叡山焼き討ちで軍功をあげる
- 丹波国を攻略する
など、軍人として成果をあげています。
金ヶ崎の戦いとは、浅井長政の裏切りで背後を攻め込まれた時の戦いであり、
織田信長を守るために撤退しながら戦う殿(しんがり)の役割を全うしました。
のちに戦うことになる、豊臣秀吉と共に戦ったことも後から振り返ると印象的ですね。
戦歴を積み重ねて成果をあげたことで、最終的には近畿地方を担当する司令官のポジションにつきます。
では、最初から明智光秀は織田信長に評価されていたのでしょうか。
元々は光秀は身分の低い武将
明智光秀は、清和源氏の土岐氏の支流で、身分の低い武士の出身です。
前半生は不明点が多く、生まれた年や父親の名前もわからないほどです。
江戸時代に編纂された「当代記」にも、朝夕の食事にも事欠くありさまと、記録にも残っていることから
最初は、周りから注目されていなかったことがうかがいしれます。
朝倉家や足利幕府の幕臣、細川藤孝の家来を経て信長に仕える
前半生で明智光秀についてわかっていることとして、宣教師ルイスフロイスの「日本史」によると
足利幕府の幕臣、細川藤孝の家来だったことが記されています。
明智光秀がかつて身を寄せていた越前国の朝倉家は、室町幕府の将軍足利義昭と繋がりがあったことから
明智光秀は足利幕府の幕臣として、本格的なキャリアをスタートさせます。
方面司令官まで上り詰める
明智光秀が織田家の家臣になった頃には、すでに豊臣秀吉や柴田勝家とは序列が離れていましたが、
天正三年(1575年)頃には、方面軍司令官と呼ばれる、攻める地域別の責任者の一人として名を連ねます。
北陸方面は柴田勝家、関東方面は滝川一益、中国方面は豊臣秀吉などの歴戦の武将ばかり。
一番織田家として経歴が浅いのに、万単位の人数を動員できる任務についた明智光秀は、織田信長からとても高い評価を得ていたことがわかりますね。
明智光秀が注目を浴びたのは本国寺の変
本国寺の変とは、本国寺と呼ばれるお寺に三好三人衆が攻めてきた時に撃退した戦いのことです。
当時、将軍足利義昭が仮御所として滞在していた、本国寺。
権力を手に入れるため、前の将軍足利義輝を倒した三好三人衆に襲われますが、劣勢の中援軍が来るまで守り抜きました。
生死を共にしたことで、明智光秀に対する足利義昭の信頼度は高まり、
また劣勢の中戦いきった武功は、信長から高く評価されたことでしょう。
また明智光秀は鉄砲の扱いにも長けていたことから、他の家臣にはない魅力を感じたかもしれませんね。
明智光秀の性格に関するエピソード
「実直な人」「心優しい武将」の性格のイメージがある、明智光秀。
織田信長や徳川家康に比べて、光秀に関する歴史の資料はあまり多くありませんが、性格に関するエピソードをまとめてみました。
ルイス・フロイスには、残酷な人と評される
ポルトガルの宣教師でイエズス会に所属するルイスフロイスは、キリスト教を布教するため来日します。
日本の布教活動を記録するためにルイス・フロイスによって書かれた「日本史」は、客観的で信用性の高い資料と評価されていますが、明智光秀に関する記述があります。
「日本史」には
- 深慮、狡猾さにより、信長の寵愛を受けることとなる
- 計略と策謀の達人
- よそ者で、ほとんど全ての者から快く思われていなかった
と悪口のような内容です。
歴史書は、書き手の感情や後の支配者からの圧力によって真実と異なる場合もありますが、
建築の達人と評価している部分もあるので、一定の評価もしています。
延暦寺の焼き討ちに賛成派だった
延暦寺を焼き討ちしたとして残虐なイメージのある織田信長ですが、明智光秀は延暦寺を攻めることを進言した武将の一人という説があります。
その証拠として、「仰木の事は是非ともなてきりに仕るべく候。」と明智光秀が和田秀純に送った書状が残っています。
意味としては、「何がなんでも、延暦寺はせん滅しなければいけない」という内容。
おとなしいイメージの光秀のイメージがガラッと変わりますよね。
目的のためには手段を選ばない性格の光秀
明智光秀は、延暦寺焼き討ちで武功をあげると、信長から延暦寺を含む滋賀郡の領地をもらいます。
そして、宗派が違う曼殊院や青蓮院も延暦寺に関係するとして、明智光秀は強引に自分のモノにしています。
今では観光名所になっていますよね。
「明智光秀 残虐と謀略 -橋場日月-」によると、天皇から信長に光秀の押領に対してやめるよう、綸旨(命令書)を発行したと紹介しています。
横領とは、人の土地などを奪うことを意味し現代の「横領」と意味がよく似ていますね。
当時延暦寺など有力だったお寺は、商工業者に課税して徴収する経済基盤を持っていました。
光秀は当時珍しい鉄砲の使い手でもあったので、高価な鉄砲を手に入れて戦果を上げるためにも、強引に押領をしていたのかもしれませんね。
本能寺の変の明智光秀の動機は諸説ある
一時流行った、このYoutube動画。
このブログの内容と同じジャンルなので、紹介してみました。
さて、いまだに解明されていない光秀の本能寺の変の動機。
今も信じられている代表的な動機としては
- 怨恨説
- 野心説
- 恐怖説
怨恨説では、本能寺の直前に徳川家康の接待役として、明智光秀が役目を担当します。
しかし、対応が悪かったのか任務を解かれて、「秀吉の救援向かえ」と命令されます。
その際、足蹴をされて恨んでいる怨恨説。
また、もともと足利幕府に仕えていたけど途中から織田家に仕えたことから、
そもそも人に忠義心があまりなく、野心を潜めていた説もありますね。
また、方面軍司令官の一人の佐久間重盛は信長から高野山に追放されたことで、いつか自分も追放されるのでは、と不安に思い追放されるなら、先に仕掛けよう!と考えて裏切った恐怖説。
はっきりしていないからこそ、いろんな説があるわけですがどうしてだろうと推測することも、歴史の楽しみ方の1つではないでしょうか。
ではでは
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