努力して発明し続けた偉人、SHRAP創業者の早川徳次
日本に住んでいたら知らない人はいない、SHARPの会社名。
今ではスマホのAQUOSや家電でも、SHARP製は大変人気ですよね。
しかし、SHARPは元々は家電メーカーではありませんでした。
SHARPの創業者、早川徳次氏は最初は今とは全然違う商品を販売していました。
1893年(明治26年)に生まれた早川徳次氏。
家庭にはまだ電気やガス、水道などは整備されていなかった時代なので、生活様式が変化する過度期でもあった時代ですね。
今回、世界に誇る家電メーカーのSHARPの創業者、早川徳次氏の功績や生い立ちを中心にまとめてみました。
日本初のラジオやテレビ、電卓を作ったSHARP(早川電機工業)
「他社に真似されるものを作れ」
が信条の早川徳次氏は、様々な日本初の製品を作っています。
代表的な日本初の商品として
- シャープペンシル
- ラジオ
- テレビ
- 電卓
- 電子レンジ
など、有名な商品だけでもこれらを日本で初めて、世に送り出しています。
現在でも、1つの商品を発明して作り続けるだけでも、評価されるのに
なぜ、このようにたくさんの商品を日本初の製品として作ったのか、私は大変興味を持ちました。
今回、生い立ちや代表的な商品を中心に、まとめてみました。
継母に辛く当たられた幼少期
幼い時に母親と死別して、継母に育てられた早川氏。
しかし、継母に内職を強要されて、満足に食事や睡眠を撮らしてもらえない幼少期を過ごします。
小学校を内職のために2年で退学させられるなど、今では社会問題になる劣悪な環境ですね。
みかねた近所の盲目のおばあさんが、幼い早川氏の苦境を抜け出すために金属加工の奉公先、坂田芳松の店を紹介したことで、何とか難を逃れました。
金属加工の仕事をしても、給料日になると勤務先に継母が現れて取り分をいくらか横取りするなど、家庭環境は恵まれせんでしたが
親方に可愛がってもらうことで、自分の居場所を確保します。
ベルトのバックルを発明して独立のきっかけになる
SHARPのイメージは、家電のイメージが強いですよね。
しかし、最初は錺(かざり)職人だった早川徳次氏は、主に金属加工の仕事をしていました。
ある時、映画のワンシーンでベルトがだらんと下がったシーンをみて、ベルトに穴がなくても止める方法がないのかと考えたことがきっかけで、ベルトのバックルを作ることに興味を持ったそうです。
そして、錺(かざり)職人になって7年目の時に、完成させて特許を取得します。
この時はまだ若干、20才なのもすごいですよね。
そしてバックルが販売されて大変好評だったので、これをきっかけに独立します。
また、水道の部品の改良を頼まれた依頼を引き受け、最終的に特許を取ることにも成功しています。
このように、若い時から発明や販売で実績を残していきました。
シャープペンシルで天国と地獄
誰もが知っている、シャープペンシル。
私達が使っている日本のシャーペン(当時は繰出鉛筆という名称)を発明したのは、シャープの創業者、早川徳次氏です。
今のSHARPのイメージと全然違いますよね。
当時、セルロイドを使った繰出鉛筆はすでに存在していましたが、壊れやすい欠点があったため、金属製に改良して実用的な繰出鉛筆を製作しました。
のちの名称では、エバーシャープペンシルと改名し、そこから現在の社名、SHARPになっています。
しかし、1923年に起きた関東大震災によって抱えてしまった借金を清算するために、
シャープペンシルの事業を譲渡する羽目になってしまいます。
ラジオ事業で再び急成長
関東大震災によって、やむなく早川徳次氏は会社の拠点を大阪に移します。
そして、外国で作られたラジオを手に入れた早川氏は、
「これからはラジオの時代がくる」と確信して、ラジオ製作に取り組みます。
電気や通信に関する商品はまだ発売されていなかったので、全く新しい挑戦でした。
ラジオ事業は、今までの事業と大きく違うことは早川氏がそれまで取り組んでいた仕事と、ほとんど関係がないことです。
ベルトのバックルやシャープペンシルは、元々奉公先の坂田芳松の店の仕事が縁で取り組んでいることに対し、
ラジオは通信事業なので金属加工の仕事とはほとんど関係がないのがポイントです。
そして、ラジオ放送が始まる直前に、日本初の国産ラジオ「鉱石ラジオ」を完成させています。
シャープペンシルとラジオって、全然分野が違うのにすごいですよね。
この技術は、第二次世界大戦と戦った旧日本軍にも注目され、
戦時中はハワイとをつなぐ通信機の開発を要請され成功して納入しています。
日本初の国産テレビを作ったSHARP
戦後、SHARPは1951年に日本初のテレビを発売した会社としても知られています。
テレビとしては、戦前すでに成功していましたが、実用化、販売に成功しました。
早川氏は戦前から注目していましたが、その時の国家情勢で開発が遅れたそうです。
ただ、テレビは初の国産として販売したものの、松下(パナソニック)のテレビにジリジリとシェアを奪われます。
再びSHARPがテレビ事業で巻き返した商品がAQUOSです。
ブラウン管のテレビの脱却を測る事によって、テレビ事業が再び日の目を見ます。
努力の偉人、早川徳次氏から学ぶ3つのポイント
様々な商品を発表した早川徳次氏。
では、私たちは何を学ぶべきでしょうか。
私は3つあると思います。
天職は見つかるものでなく、見つけるもの
早川徳次氏が直接製作に関わった仕事は、金属加工やシャープペンシルの開発、ラジオですが
それぞれ業種は違いますよね。
日本人は、1つの仕事に対して突きつめる生き方が好きなので、
「自分に向いている運命の天職を見つけるんだ」と考える人が多いように思えます。
仕事の向き不向きはありますが、仕事に対して選り好みをしすぎない大切さを早川徳次氏から学べると思います。
需要や生産性ある仕事を見つける先見性の重要さ
早川氏は外国製のラジオを初めて手にした時、これから絶対伸びる産業と直感が働いたそうです。
ベルトのバックルやシャープペンシルは、最初に初めた金属加工の仕事の技術で発明しましたが、
ラジオはそれまで仕事として関わっていませんでした。
元々早川氏は、金属を加工する職人でした。
職人気質だと1つのことを掘り下げることにこだわる人もいますが、早川氏は見事に方向転換して会社を大きくさせることに成功しました。
一方、早川氏が最初に働いた店の親方は、金属加工を機械でなく手仕事ですることに生涯こだわり続けましたが、
あまり良い結果は得られませんでした。
こだわりをもつ職人さん気質だけど、需要があることに取り組んだ判断力がすごいと思います。
追い詰められた環境で努力する重要性
好きかどうか関係なく、「ここで頑張るしか居場所がない」
と腹をくくって努力することの重要です。
先ほどの仕事を選ぶ先見性と相反する主張ですが、選んだ仕事に対しての向き合い方のことです。
早川徳次氏は、最初は選んだ仕事ではなく、紹介された奉公先で仕事をはじめました。
仕事が嫌で帰ろうものなら、冷たい仕打ちをする継母の元に帰らないといけない状況は、結果的に早川氏が仕事に人一倍取り組むモチベーションになったと思われます。
「好きなことを仕事にしたい」気持ちよりも
「ここで成功しないと後が無い」と思うことは、人の成長を促進させる出来事です。
参考になれば幸いです。
ではでは
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