安田財閥やみずほ銀行の創業者なのに、ケチと言われた安田善次郎
新しい一万円札の紙幣の顔に渋沢栄一が選ばれましたが、同じように明治時代の偉人で安田善次郎を知っていますか。
かつて大きく栄えた安田財閥や、現在のみずほ銀行の礎を築いたのが安田善次郎です。
ただ当時は、ケチな人としても知られあまり人気はありませんでした。
近年、見直されてきた安田善次郎の功績について、まとめてみました。
安田善次郎が一代で成し遂げた功績
安田善次郎は、一代で大きなグループ会社を作った明治時代の偉人の一人です。
改めて安田善次郎が成し遂げた功績を見ると
戦前の4大財閥の1つ、安田財閥を形成
みずほ銀行などのみずほファイナンシャルグループ
明治安田生命保険の創設者の一人
昭和天皇の意向で引き受けた銀行救済事業
浅野財閥などへの投資
など、幅広い活躍ですね。
とても一代で成し遂げられると思えないことばかり。
銀行の運営を中心にした事業活動で基盤を作り、投資や金融関係の事業を立ち上げたようですね。
現代の感覚では、0から銀行を作るなんて無理だー、と思いますが、
安田善次郎のスタートを知ると自分にもチャンスがあるかも、と思える環境です。
以下が、生い立ちの話しです。
幕末は玩具屋の奉公人としてスタート
残っている文献によると、安田善次郎は江戸時代末期生まれで20才の時、江戸の玩具屋に奉公して仕事を開始します。
下級武士の子として生まれたため、最初はほとんど人脈がない地点からスタートしています。
そして数年後に、銭両替商兼鰹節両替商の店で奉公をして金融の仕事に関わります。
銭両替商とは、字のごとく両替する仕事で、金や銀、銭を適正に交換する仕事。
江戸時代では、西と東では流通するお金の種類が違っていたので、両替商は必要な仕事だったんですね。
最初から金融の仕事につきたかったのかどうかわかりませんが、後々の仕事に大きな影響を与えます。
今も昔も、大きく成功する仕事の1つは、金融の仕事ですからね。
そして、25才で両替商として独立を果たします。
この時点では、他にも同じように両替商は存在するので、金融に関わったというだけで後の財閥形成まで飛躍するとわからないですよね。
では、なぜ他の両替商を差し置いて急激にのびたかが、次の内容です。
飛躍したのは努力と2つのハイリスクを受け入れた要因
安田善次郎は、幕末時の不安定な経済事情の波にうまく乗れた事も、成功の要因の1つです。
両替商は、江戸時代前半からすでにあった仕事。
つまり、安田善次郎は150年前以上からすでに存在している仕事に挑戦して、独立開業しました。
信用面や資金力で考えると、かなり不利なスタートだと思います。
そんな時、転機が訪れます。
当時の政治事情も少し入れながら、まとめてみました。
朝四時に起きて仕事をする
ずっと継続したかは定かではありませんが、朝四時に起きて店前の水まきから仕事を初めたそうです。
その精神力で両替商だけでなく海苔や鰹節などの販売を一生懸命したことで、次第に店が繁盛したそうです。
それにしても、朝四時に起きるのはすごい。
同じ時期には、たばこと酒をやめて仕事に対して猛烈に働きます。
このくらいの意気込みが、スタートした自営業者には必要かもしれませんね。
古金銀回収を引き受ける
古金銀回収を引き受けるだけで、何がすごいの?と思いますよね。
この話しをイメージするための、歴史の話しを付け足します。
幕末は、外国船から商人が押し寄せますが、日本はこの時金と銀の交換比率に目をつけられてしまいます。
当時外国では、金1gで銀は15gを交換するルールでしたが、日本では金1gで銀は5gで交換することができました。
てことは、外国では30グラムの銀で、2グラムの金だけなのに、日本だと30グラムの銀で6グラムの金が手に入る計算ですよね。
「めちゃくちゃ、損じゃないかー。」
と幕府が慌てたので、新たに流通する貨幣の金や銀の量を減らそうと考えます。
そのため、新しい貨幣(金や銀の量が少ない)を発行するために、今までの古金銀の貨幣(金や銀の量が多い)を回収する業者を幕府が探し出すようになります。
ただ、今まで大きかった両替商は押し込み強盗などが多発して、勢力が弱まっていたので引き受ける両替商が見つかりませんでした。
引き受けたらお金をもっていると思われるので、強盗に狙われやすいですもんね。
この情勢の時に、古金銀回収を引き受けたのが安田善次郎。
幕府の命令の仕事なので、需要があることは間違いなかったでしょうが、命を落とす危険を省みずに引き受けたことが成功に繋がります。
太政官札の受け入れが大成功する
時は移り、明治時代。
明治政府は、不換紙幣の太政官札という初の紙幣を発行します。
【不換紙幣】とは
発行者である政府または銀行が、正貨との兌換(だかん)の義務を負わない紙幣。
-精選版 日本国語大辞典-
正貨は、金や銀を意味します。
当時は、新しい政府に対して信用がない時代だったので、明治政府が発行した紙幣に対して国民は疑心暗鬼になります。
今で考えると、一万円札が使えなくなるかもと疑問に思うことですから、現代の感覚ではイメージしにくいですよね。
そこで、両替商の安田善次郎の登場です。
社会に新しい紙幣を浸透させるため、明治政府は有力な両替商に不換紙幣の太政官札を購入してもらいます。
安田善次郎にとって、太政官札を明治政府から購入することはバクチとも言われていました。
なぜなら太政官札の価値は、今の株価と同じように市場が決めるのでどうなるか予測できないからです。
太政官札の一枚が100円の場合、ずっと価値が50円なら50円の損が出てしまいます。
太政官札は途中価値が下がってしまいますが、安田善次郎は下がった時に取得している分があったので、結果的に定価まで引き上がったことで莫大な利益を確保することに成功しました。
太政官札の受け入れが結果的に成功することで、それ以降大きなビジネスに乗り出すようになります。
安田善次郎が投資するための4つの条件
安田善次郎は、銀行業務をしながら投資事業にも力を入れています。
その時に、4つの条件を兼ね備える事業が成功すると、安田善次郎は主張しています。
第一はその事業が公共の利益と万人の便益、社会の進歩につながる性質のものであること
第二は、収支計算上、相当の利益を見込めること
第三は、準備資金や社会の景気、競合他社への対策などが整っていること
第四は、事業に当たる人物に熱意と誠意があること
特に、4番目は必要不可欠と主張しています。
新しい仕事をする時や、企画するときに参考になる意見ですよね。
また安田善次郎は、学歴が不要なことも主張しています。
陰徳を積み重ねることを説いた偉人、安田善次郎
『富之礎』の本によると、父から「慈善は陰徳をもって本とすべし、慈善をもって名誉を求むべからず」
陰徳とは、陰で良いことをすることを意味します。
実際、安田善次郎は東大の安田講堂の建設費を匿名で寄付するなど行動しますが、世間からは金持ちなのに慈善事業をしないケチな人と評価されてしまいます。
結果的に、ケチのイメージがついたせいか暗殺されてしまい、世間からも惜しまれることはありませんでした。
安田善次郎は志が大きすぎて国民には理解されなかった面があります。
後から考えると、世間に対して少しはアピールしてもよかったかもしれませんね。
参考になれば幸いです。ではでは
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